東 京の京橋に店を構える平野古陶軒は、昭和11年(1936年)に創業されて以来、現在に至るまで、およそ87年にわたって国内外のコレクターや美術館に優れた美術品を納めてきた。そこには、初代・平野龍治(図1)から、二代目・龍夫、三代目・龍一へと受け継がれてきた伝統と、常に世界を見据えてきたグローバルな視野が共存している。本稿では、そんな稀有な古美術商である平野古陶軒の、三代にわたる軌跡を紹介する。
1.平野古陶軒の創業
平野古陶軒の創業者である平野龍治は、明治43年(1910年)3月1日に大阪の農家の四男として生まれた。昭和4年(1929年)に旧制中学校を卒業した際、古美術業界で働いていた兄の龍治郎が、就職先として中国美術を専門とする店を龍治に紹介した。そこは後に「中国美術の生き字引」と呼ばれる浅野梅吉氏が経営していた浅野竹石山房であった。
就職した後、龍治は主人に連れられて北京や上海に出張する機会に恵まれ、中国大陸における美術事情に詳しくなる。また、当時世界規模の商売を展開していた山中商会のために、数千点もの美術品を斡旋した。さらに昭和9年(1934年)5月、重要な顧客であった嘉納治兵衛氏が白鶴美術館を開館させた際には、その手伝いのため毎日のように美術館に通ったのである。この修業期間で、浅野氏が得意とした中国の陶磁器や青銅器を学んだことは、龍治にとって一生の財産になった。
7年間の修行を経て、美術業界の片鱗が見えてきたと感じた龍治は、浅野竹石山房を退職し、昭和11年(1936年)2月26日に平野古陶軒を開業する。古陶軒という屋号は、主人であった浅野氏に命名してもらったものである。先に美術業界に入っていた兄龍治郎は、中国古美術を扱う商人としてすでに成功しており、北京にも店を持っていた。龍治が独立した際には助力を惜しまず、とくに龍治郎が青銅器の優品を中国で数多く仕入れてくれたことは、平野古陶軒にとって大きな助けとなった。くわえて、昼夜を問わず働いた龍治の努力もあり、店の経営は次第に軌道に乗っていった。
昭和12年(1937年)12月、龍治にとって一生に影響を与える大きな出会いがあった。北九州の門司で古美術商翠竹堂を営む末松主税氏が、顧客であった出光商会店長の出光佐三氏を紹介してくれたのである。龍治は出光氏に対する第一印象として、後に「立派な紳士であるが、言葉を交わせないほどの威圧感を感じた」と語っている。この時は殷代の青銅尊を持参したが、出光氏は一目見るなりそれを購入した。以後、龍治は会社へ伺うたびに作品を持参し、生涯にわたって数多くの作品を納めることになる。
開業の翌年(1937年)に勃発した日中戦争に加え、昭和16年(1941年)には太平洋戦争が始まり、戦況は次第に悪化の一途をたどる。戦争の影響は龍治の商売にも影を落とし、昭和18年(1943年)、ついに龍治は一時平野古陶軒を閉めることに決めた。
2.平野古陶軒の発展
戦後の復興が盛んな昭和22年(1947年)、龍治は大阪北区老松町に店舗を新築し、平野古陶軒を再開する(図2)。終戦を平壌で迎えた兄龍治郎は、その後ソビエト連邦に抑留されていたが、帰国を許され、療養しながら平野古陶軒で働くことになった。平野古陶軒の戦後の再興は、まさに龍治と兄龍治郎の二人三脚によって進められたのである。
昭和33年(1958年)には、日本経済新聞社常務であった圓城寺次郎氏が、中国考古学者の水野清一氏に伴われ来店し、これをきっかけに圓城寺氏との親交が始まる。圓城寺氏は美術に強い関心を持っており、後に中国美術に関する展覧会の開催や美術書の刊行を積極的に推し進めた。
またこの頃、朝鮮と中国の陶磁器を精力的に収集していた安宅英一氏も、頻繁に平野古陶軒を訪れるようになった。安宅氏は多くの陶磁器を購入したが、なかでも昭和41年(1966年)に納めた鴻池家伝来の国宝「飛青磁玉壺春」(図3)は白眉であった。この作品は現在、安宅コレクションを継承した大阪市立東洋陶磁美術館に所蔵されている。
いつしか龍治は、名品を求める国内外の声に応じ、世界規模の商売をするようになっていた。この頃には、E.T.Chow、Jean Pierre Dubosc、Roger Bluetteなど、世界的に活躍する古美術商やコレクターたちと頻繁に取引をするようになり、平野古陶軒の名は世界に知られるようになった。
ここで、平野古陶軒のさらなる発展に貢献した、二代目・龍夫について述べておきたい(図4)。龍夫は龍治の子として、昭和14年(1939年)11月3日に生まれる。当初は家業を継ぐ気はなかったが、関西学院大学在学中に、父龍治が外商する際の荷物持ちとして同行するようになり、古美術業界に興味を抱く。ついに父の家業を継ぐことを決意した龍夫は、昭和37年(1962年)の大学卒業と同時に入店したい意向を伝えると、父龍治から「入店の前には修行が必要だが、古美術業界ではなく、他のジャンルを学びなさい」と言われ、店の顧客でもあった東京銀座の彌生画廊を紹介された。彌生画廊の小川敏夫社長は、龍夫を大店の息子として特別扱いはせず、掃除や荷造りなどの雑用からしっかりと学ばせた。龍夫はできることから完璧にこなしていこうと懸命に働き、徐々に商売を任されるようになった。
9年に及ぶ修行を続けた龍夫は、ついに独立を決心する。ただ、父のいる大阪の店をそのまま継ぐのではなく、平野古陶軒の将来を見据え、東京に店を出すことを考える。そして昭和46年(1971年)3月1日、平野古陶軒東京店を銀座にオープンさせたのであった。その際、小川社長は顧客を紹介するだけでなく、開店当日も店に来てずっと立ったまま接客してくれ、用意した作品をほとんど初日で売り切ったという。後に龍夫は小川社長について、「厳しい社長ではあったが、心が温かく、思いやりがある方であった」と述懐する。
海外市場の重要性を強く感じていた龍夫は、東京支店を切り盛りする一方、積極的に海外へ赴いた。とくに、サザビーズ、クリスティーズといった海外オークションには頻繁に足を運び、多くの売買を行った。くわえて、オークション会場では出品された作品に触れて学ぶとともに、美術に関わる学者やコレクター等との人脈を広げていく。龍夫の交友関係は広く、ロンドンのGiuseppe Eskenazi、Richard Marchant、香港では陳樹荃(Joseph Chan)、そしてニューヨークの James.J.Lally など、世界を代表する古美術商たちと交流を持つ。とくに、後にサザビーズ香港の礎を築いた Julian Thompson とは懇意の仲であり、その親交は後に龍夫の息子である龍一の代まで続く。
昭和56年(1981年)、龍夫はロンドンで「宣徳青花雲龍文壺」(図5)を仕入れたが、これは平野家にとってちょっとした事件となった。サザビーズのオークションにかけられたこの作品を現地で見た龍夫は、その美しさに興奮し、当時の中国陶磁としては史上最高値で落札する。しかもこの時の資金は、平野家が住む家を抵当に入れて銀行から借りたものであった。報告を受けた龍治は、「店が潰れる」と激怒したが、実際に作品を見て大変気に入ったようで、龍夫も胸をなでおろした。それでも売れなかったら破産してしまうので、気が気ではなく、ほとんど利益を乗せずに出光佐三氏に見せたところ、「あ、いいものだね」「安いね」と言いながらすぐに購入してしまった。後に龍夫はこの一件について、「佐三氏は人の大きさが全く違う」と感慨を込めて語っている。この翌年(1982年)、出光佐三氏は永眠される。氏に納めた数々の名品が、今も出光美術館に燦然と輝いていることは、平野古陶軒にとってこの上ない栄誉となっている。
昭和63年(1988年)5月には、平野古陶軒50周年の記念展を開催し、これまで扱った作品の中から特に思い入れのある作品101点を選び、図録を作成することになった。図録に祝辞を寄稿したのは、出光佐三氏の息子である出光昭介氏と、日本経済新聞社の顧問になっていた圓城寺次郎氏であった。龍治も冒頭のあいさつ文を書き上げ、図録の完成を心待ちにしていた。しかし、惜しくも完成間際に逝去してしまい、刊行された図録『古陶軒撰華』を目にすることはなかった。
3.未来を見据えて
海外で頻繁に買い付けを行っていた龍夫は、日本の美術業界に対して様々な想いを抱いていた。日本では美術商を通じて売り買いすることが主流であったが、海外のオークションではコレクターが直接参加していることを知り、これからは美術商の必要性が下がり、オークションを中心に市場が回るのではないかと考えていた。くわえて、日本の美術市場で取引の場が減りつつあったことを危惧し、昭和62年(1987年)、理念に賛同する美術商と共に、美術品の交換会「親和会」を発足させた。また、その3年後には親和会による「シンワアートオークション」を開催する。シンワアートオークションでは、公平公正な取引を徹底することで、すべての参加者に信頼されるシステムの構築に努めた。また、長身で声が良く通る龍夫は、オークショニアとしてハンマーを握り、長年オークションの顔を担ったのである。
龍夫は平野古陶軒の社長を務めつつ、交換会やオークションの開催といった形で、美術業界の未来を考えた改革を行ってきた。この段階において平野古陶軒は、もはや旧来式の古美術商という枠を超えた存在になっていたのである。このような平野古陶軒のビジョンは、現在の社長である三代目・龍一にしっかりと引き継がれている。
龍夫の子である龍一は、昭和46年(1971年)3月6日に生まれた。成城大学で経済学を学んだ後、平成6年(1994年)に父龍夫がかつて学んだ彌生画廊に入社し、美術業界に足を踏み入れる。入社したのがバブル崩壊の時期であったこともあり、企業から多くの美術作品が放出され、良質なコレクションに触れることができた。
彌生画廊に13年勤めた後に退職し、平成19年(2007年)、父龍夫が一旦閉めていた平野古陶軒を再興し、東京の京橋に店を構える。運悪くリーマンショック(2008年)や東日本大震災(2011年)の影響を受けつつも、中国陶磁器の高騰に支えられ、何とか店を軌道に乗せていく。
独立してから5年ほどたった頃、サザビーズから中国美術のシニアスペシャリストという仕事へのオファーがあった。スペシャリストとは、オークションが開催されるニューヨーク、ロンドン、パリ、香港はもちろん、作品のある所であれば世界中を飛び回って査定するという仕事である。得難い転職の機会に際し、将来の発展性など様々なことを考慮した末に、一旦店を閉めサザビーズに転職することを決める。この転職によって龍一は、他の職業ではあり得ない程の膨大な美術品に触れることができた。また、美術業界だけでなく、学術界や政財界とも関わったことで、様々な業界に広範な人脈を確立したのである。
サザビーズに7年勤め、最後の3年は日本法人の代表取締役にまでなった龍一であったが、再び平野古陶軒に戻ることを決意する。そして、平成30年(2018年)10月、平野古陶軒の代表に就任し、顧客と直接作品について対話するという美術商の原点に回帰した。しかしその一方で、文化庁の事業に関わったり、一般企業での講演を行ったりすることで、社会に向けて広く美術の素晴らしさを説き続けている。